舟岡山の自然

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舟岡山

舟岡山は大昔、手取川がもっと高い位置を流れていた時、削り残された山だと思われます。(手取川は、最初、舟岡山の東側を流れていて、その後、現在のように舟岡山の西側を流れるようになり、浸食がすすんだと思われます。)

 縄文時代には人が住んでいて、舟岡山の北側、青年の家周辺には縄文時代の遺跡があり、住居跡や土器が発掘されています。昔は3棟の建物が復元されていましたが、今は北側の1棟だけが残っています。発掘された土器は白山塾に保管されています。

後高山(獅子吼)登山道から見た 舟岡山と手取川
白山比咩神社発祥の地の記念碑

 白山比咩神社は、最初、舟岡山に建てられ、その後、手取川河畔の十八河原へ移り、洪水で現在の古宮公園のある場所へ、そこで火災にあって現在の場所に移ったそうです。(不思議なことに「カシミール3D」で確認すると、舟岡山からは白山が見えません。なのに、この地に白山さんが建てられたのは、神の依り代となる岩か木があったからではないかと考えるのですが、皆さんはどう思われますか?)舟岡山には白山比咩神社発祥の地の記念碑があります。

その後、舟岡山は城(砦?)として使われ、一向一揆衆が使っていたころは、北の金沢御坊と南の鳥越城を結ぶ重要な拠点になっていました。一向一揆が柴田勝家らに滅ぼされた後、前田利家の家臣、高畠定吉が入り、一向一揆の残党に備えるために改修されたようです。その後、一国一城制により、廃城となりました。現在は、その頃の石垣などが残っていて遊歩道があります。

 また、舟岡山には三角点があります。四等三角点で標高は178.9mです。
 三角点は本丸ではなく、四の丸?の北西の隅にあります。(地図の一番上付近)道から少し離れていて見つけにくいですが道の脇にある大岩を見つけて、札の下がった木を探し、少し北(青年の家側)を探してください。曲輪の端なので行き過ぎて下に落ちないよう気をつけてください。

道のわきのこの石を見つけて
この樹の下には三角点はありません
四等三角点で標高は178.9m

 道はかなり整備されていて、倒木のあるところもありますが、下の地図にある道はわかると思います。(白山比咩神社創祀の地の碑から下に出丸があるようで、そちらに行くこともできますが、道は整備されていません。2021年5月7日参照)また鶴来高校や地元の有志の方々により手入れがされ、城の様子がわかりやすくなってきました。石垣や空堀、土塁などを見ることができます。
 ただし、道を示す看板には「三の丸」「四の丸」「二の丸」「馬出門」「北馬場」などの表示がありますが、どこがその場所なのか示されていません。そのため、ここでは個人的にこの場所だと思う名称で書かせていただいています。ご了承ください。